「ま、待つんだえ!!! そいつらをどこへやる気だえ?!!!」
その声の主の登場に、再び心臓が凍るような感覚で身がいっぱいになった。
天竜人だ。
今現れたソレがたった1人だろうと、悪夢のような記憶が蘇って纏わりついてくる。枷だって外れたのに、今この瞬間もその場に縫い付けられているかのように動けない。表情を動かせない。だって、例えば堪えきれず泣いてしまえば「煩い」と殴られて……───────。ああ、嗚呼!!!
どれほど硬直していたか、正確なところは分からない。けれど、フィッシャー・タイガーその人の、魂からの叫びが奴隷たちの意識を、目線を、かっさらっていった。
「お前らのいねェところだ!!!!!!!」
「……!!!!!!」
このときの光景をきっと誰しも忘れられないだろう。なにせ自分たちの目の前で、この世で一番逆らってはいけないと教えこまれた《世界貴族》を思い切り殴り飛ばして壁にめり込ませたのだから。
そうしてフィッシャー・タイガーは、まさにいまボア・ハンコックたちの目の前で、奴隷たちの英雄となったのである。
(一部が)更地と化した《聖地》には、炎が、嵐が、水の大蛇が、地割れが、暴れ狂う。ハンコックたちが港目指して走っているときに「……手加減ってものを知らねえのか?」「手加減してこれなんですけどもね」というやり取りが聞こえたので、これらの現象の原因は騎士にあるらしい。
タイガーと白騎士に護られながら、互いに助け合って目的地まで辿り着き、ハンコックたちは船を奪って海へと出た。《聖地》の詰所に残って居たのであろう兵士たちの幾らかが後を追ってくるが、荒れに荒れた海と天候に阻まれていつしか姿を消していた。
*******
そして今、彼女らは《偉大なる航路》にいる。
風はあれど今は波が穏やかで、もう彼女らを縛りつけるものも、脅かすものも、何もない。
……自由だ。
自由が再びこの手に戻ったのだ。
舳先のほうで夜明けを告げる声と、それを心から喜ぶ声が聞こえる。隣に居た者同士で踊り出す者もいて、次第にそれは伝播していった。ハンコックも例に漏れず、2人の妹たちと手を取りあって泣き笑って踊った。こんなに愉快で、それを心のままに表せるのは数年ぶりのことだった。
ふと、男の笑い泣く声が聞こえた。
この声は、───────タイガーだ。
声のする方を見ると、騎士が黙ってその背に手を添えていた。
(……大人の男も、ああして泣くものなのか)
それよりも驚いたのは、騎士がタイガーを慰める際その兜を取って素顔を晒したのを見たからである。
騎士の正体は、妙齢の女だった。
青みがかった長い黒髪で、それはまるで夜明け前の海だ。
朝が近くなるにつれて昇ってくる陽の光に照らされて、絹のように光るその御髪。
タイガーを優しく見つめるその瞳は朱い宝玉のようだ。ツリ目で気が強い女といった風貌なのに、浮かべる表情がたおやかを通り越してふにゃふにゃとしている。けれど確たる芯があって、慈愛に満ちている。
女の横顔の美しさにハンコックは見惚れた。
……そのときの衝撃といったら、一目惚れもかくやと思わせるほどだ。即効性のある劇薬の効能のように、稲妻のように、ハンコックの身を激しく貫いた。あの程度の美しさなら故郷で何人も見てきたはずなのに、ハンコックよりも美しいというわけでもないのに、女から目が離せない。先の聖地でのあのゆるゆるさも、もうギャップにしか思えなかった。なにより、タイガーに向けるあのふにゃふにゃの慈愛の目が駄目だ。あんなのを見せられたら。
視線に気づいて、女がハンコックに微笑んで何気なく手を振ったとき、ハンコックは思わずその場でヘナヘナと座り込んでしまった。すぐ隣にいた妹たちはそれはそれは驚いて必死に呼びかけてくれるも、ハンコックはいっぱいいっぱいで返事もできない。心臓が痛いくらいドキンドキンと鳴っている。まるで鐘のように。
「ええと……大丈夫?」
予告なく、あのとき聖地で安心させてくれた優しい声音が耳元でして、もうダメだった。
認めたくはないが、陥落した、と直感して内心白旗を振るしかない。涙腺(ダム)が決壊したかのように、ハンコックの黒曜石の瞳から次から次へと涙がこぼれ落ちていく。己の涙が歪ませた視界の先に女がいて、少し困ったように笑っている。
「その、泣きたいだけ泣いちゃいなよ。見えないように隠しておくから」
声をかけてきた理由がまるで見当違いなのに、背中をポンポン撫でられるなど的確に追い打ちをかけられてハンコックは女の腕の中で思う存分泣いた。
……2人の妹も、彼女に縋り付くようにして泣いていた。
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