あの日、わたしは 急

いつの間にか月人たちは千代子を追うのをやめ、マスターたる男と千代子を取り囲んでいた。手を出すでもなく、野次を飛ばすでもなく、ただ男​───────エクメアと、千代子に注視しているだけ。

辺り一帯は、静けさに包まれた。
月人が幾らでもいる空間だというのにまるで、エクメアと千代子しかいないような錯覚さえ与えてくる。

その静寂を打ち捨てるように、エクメアは口を開いた。

「身体がつらいだろうに、よくこんなに逃げ回ったね。大丈夫かい」

大丈夫なわけあるか。
なんならさっきから、インフルエンザで高熱出てる時よりも体調最悪だわ。

お前が無体をはたらいたからな、と思ったが千代子は声に乗せなかった。言っても無駄だと分かっているから。

そしてじりじりと後退して、エクメアから距離をとろうとする。

「……本気で心配してるわけじゃないのにそんな言い方するのはやめた方がいいと思いますよ」
「おや……敬語とは、私の知らない間に随分と他人行儀になってしまったな」
「今までのご自分の所業の数々を顧みられたらいかが?」

対するエクメアも、ゆったりと千代子の方へ接近してきた。

結局エクメアの歩幅の方が広いからか距離はすぐ縮められて、千代子は無遠慮に両腕を掴まれた。肌が粟立つ。

「ッ……離して、」
「チヨコ」
「その名で呼ばないで、許した覚えはありません……それとも、その令呪で無理やり従わせるのですか、“マスター”?」
「まさか。むやみに消費するのは良くないと君直々に教わったのにそんな愚行はしないさ、私の“降臨者”」
「……あなたの、というのは甚だ遺憾です。事実ですが」

それよりも、この手を退けて。
いつまでもベタベタと鬱陶しい。

どんなに千代子が嫌そうにしても、エクメアは微笑んでいるだけだった。

「私が憎い?」
「好ましい訳がありませんね」
「私は君のこと、結構気に入ってるけどね。……私が疎ましい?」
「貴方、私に何をしたか自覚してらっしゃらないの?」
「十分してるさ。​───────私を殺したい?」
「……わたしの知らないところで朽ち果てたらいいなと思っています」
「それは困ったな、私たちは死ねないんだよ。どう足掻いても」

そんなことはもうとっくに承知の上だ。

だって、貴方みたいなのを手にかけたらそれこそ思う壷じゃないか。今この瞬間にも貴方たちは無にかえりたくて、それなのにわたしが感情のまま手を下したら、貴方が願ったとおりになる。そんなことは許せない。

わたしが「やめて」と言ったのにやめてくれなくて、わたしが還してほしくても叶わない。
それでいて自分の願い事だけ叶えようだなんて虫がよすぎる。

「知っています。だからわたしは手を下さない」

毅然とした態度で言いきる。
それでもエクメアの態度は崩れない。

むしろ微笑ましい光景を眺めているような雰囲気さえ醸し出してきて、いつの間にか千代子の腕ではなく両手を自らの両手で握っていた。……ウワこれ、恋人繋ぎだ。

「​───────けれど、きっといつか君は私たちを終わらせてくれる。そんな確信がある」

そうしてエクメアは、愛してもいないのに愛しいものを見るように千代子を覗き込んで、呪いを吐いた。

形はなくともその呪いは千代子の全身を巡って、心臓のほど近くに棘を植え付けた。

「月(ここ)を出ていくんだろう? 構わないよ」

きっと君はいつか、ここへ舞い戻るだろうからね。

「ど、うして、そんなこと​……───────​───────」

返答はない。ただ、にこりと笑みがあるだけ。
途端、手は離され、千代子の身体は宙に舞った。

浮遊感が全身を包み込んで、下界へ下界へと千代子を誘っていく。
自由のきかない加速度を共連れにして、千代子は月をあとにした。

あぁ。
空気は冷たいはずなのに、身体が灼けるようだ。

「……王子、良かったのですか? アレを手放して」
「手放してなんかいないさ」
「……?」
「ただ、そうだな……少し遊びを持たせようと思って」
「遊び、ですか?」
「それに地上には金剛もいるだろう。ちょうど良かったなと思っただけのことだよ」
「、はぁ……」
「試せることは、いくらでも試すべきだ」

*******

​───────​───────唯一の地上、“丘”にある緒の浜にて。

金剛に連れられて、フォスフォフィライトは緒の浜へ足を運んだ。己に見合う仕事を探してもらうためだ。

「先生ー! これ、もしかして新しい子ですかぁ?!!」
「こらフォス、あまり離れるなと​───────」
「ゴメンなさい!!! って、わァ!!!」
「フォス!!!!!」

そしてそこで、フォスは“新たなる仲間”かもしれないものに出会った……までは良かったが、注意力散漫でつんのめった。
そのため目の前に居た“後輩”候補目掛けて倒れ込むこととなり、硬度3半、ダントツ最下位の脆さを誇る己の身体が大きな音を立ててバラバラに砕けるのを待つばかり、のはずだった。

ふにょん。

「え?」

“後輩”は、非常にやわらかかった。
フォスと接触してもかすり傷ひとつない。
不思議なことに、互いに割れたりもしなかった。

「……、…………?」
「大事ないか? …………、フォス?」
「……あれ、僕どうして……」

僕、どうして割れずに無事なの?
この子は…………一体何者なんだろう?

この日フォスは“後輩”もろとも金剛に抱えられて学校へと帰っていったが、衝撃のあまりその道程を覚えていない。

ただその後、金剛にこの“後輩”が目覚めるまで世話をしてやるよう仰せつかって、「人生初の仕事」に浮かれまくったことだけは今でも覚えている。

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