亭午過ぎ、幻想とワルツを 後編

「うわぁ?!」

――5歳の春、宵闇の空をそのまま写し取ったような黒髪の天使が木漏れ日とともに目の前に現れた。十何年過ぎた今も、その光景を鮮明に覚えている。

このとき彼女が身にまとっていたのはレースやらフリルやらがこれでもかと盛り込まれた、女の子らしいお淑やかな――所謂余所行きのワンピースだった。木登りなんか想定されるはずも(許されるはずも)ない服装。
にもかかわらず、そんなの些事だと主張するがごとくフワリと枝から飛び、軽やかに地上へ舞い降りたのだ。

柔らかな芝生に尻もちついた俺は呆然とその一連の様子を眺めていた。

「よ、と」
「ッ……
「こんにちは、はじめまして」

わたし、千代子っていうの。
よろしくね、仲良くしてね、と尻もちついたままのこちらへ手を差し伸べ、彼女はひどく嬉しそうに微笑んでいる。

ウッカリ見惚れて手を引かれるままに立ち上がると、ついさっきまで俺の行く手を阻み続けた迷宮庭園がやけに美しく見えた。

庭園は、無意識のうちに感嘆のため息をもらすほどには壮観だった。足を踏み入れた直後よりも何故か今――まさに今、繋がれた手の先にある景色がすべてきらめいて、眩しく見える。

……、」
「ここのお庭、他にも素敵な場所がたくさんあるんだよ」
……だから?」
「一緒に探検しにいかない? 楽しいよ」
「まぁ……いいけど」
「やった! じゃあ、早速出発!」
「こら待て引っ張るな」

手を繋いだままの彼女の案内のもと、花々の迷路の中を巡ることになった。立て板に水のごとく話しはじめ、「こっちの花はね、」とか「そこの生垣にね、」とか「ここ、普段は小鳥さんたちがね、」とか身振り手振りを混じえつつ話題が尽きない。
きっと、彼女はおしゃべりが好きなんだろう。

話している間などずっとご機嫌で、何がそんなに嬉しいんだと問うと「きみがわたしのこと、気にかけてくれたのがすごく嬉しくて」と花畑みたいな回答が返ってくる。俺は思わず「ハァ?」と聞き返してしまった。

(そんな単純で、簡単なことで喜ぶのか)

どうやら彼女は、今まで出会ってきた人間とは随分とかけ離れた生き物らしい。本人曰く俺より年上らしいが、ウソついてないだろうな、と勝手に心配にすらなった。

(本当は、本当に人間なんかじゃなくて……本当に天使様なのかもしれない、なんて)

人間にしてはあまりに純粋無垢だ。

「あんなの……社交辞令みたいなものだろ」
「でも君がわたしに気づいて、心配してくれたのは本当でしょう?」
……
「わたしが勝手に嬉しくなって、きみの行いを勝手に有難がってるだけだよ」

変に擦れたところがない。
愚直なほどに真っ直ぐで、嘘がない。
多少、屁理屈は捏ねるようだが。

……………………フゥン、変なの」
「ええ、そうかなあ? ほんとのこと言ってるだけなんだけど」
「いいから前向けよ、転ぶだろっ」
「はぁい」

彼女――千代子が不思議そうに首を傾げたのを斜め後ろから見つめ、気づかれないようそっと口元を緩めた。

(躊躇いがあったのも嘘じゃないけれど、あのとき思い切って話しかけてむしろ良かったのかもしれない)

――そしたらまずはね、いちばん薔薇がきれいなとこに、」
「ワッ、ま、前を向けって言ってるだろ?!」
「わあ?! わ、わかったよう……

なんだか随分と心配性だなあ、と動揺の中苦笑する声。

(ああ、くそ)

油断していた……
変な表情を見られるところだった!

さっきから俺はどこか変だった。
意識していないと、らしくもなく頬が緩んで、際限なく繋がれた手の先を見つめてしまう。
そこには心臓が痛くなるほどの焦がれる熱も、鋭利な感覚も、強い衝撃もないけれど、まるで生まれる前からそばにあったような心地よい架空の温もりを、千代子から感じるのは――何故だ?

出会ったばかりなのに、知り合ったばかりなのに、名前だってついさっきその響きを聞いたばかりなのに、どうして――どうして俺は、こんなふにゃふにゃした生き物を。

……やっぱりヤだった?」
「は? ――なにが?」
「探検……
「嫌じゃない」
「ほんと?」
「馬鹿、嘘ついてどうするんだよ。……よそ見して転んで怪我したらそれどころじゃなくなるだろ」

見当違いな当て推量でしょぼくれかけた彼女に慌ててそれらしい弁明をしつつ、やっぱり疑問でいっぱいだった。

どうして彼女は空想上の天使様を思わせるんだろう、どうして一緒にいると心地いいんだろう。

「! そ、そか、そうだよねえ!」
「だっ――から前向け、前! それで早く連れていけよ」
「ふふ、はぁい!」

わからない。
わからないが……とりあえず不快ではない。
よくわからないことにかまけているより今は探検を優先しよう、と一旦謎を脇に置いておくことにした。
それは悪いものでもなさそうだったので。

「じゃ、こっち!」と満面の笑みで案内を再開した彼女の手に引かれ、今度は隣で、もう一度だけ頬が緩んだ。

――この日からずっと、俺の隣では親愛なる天使様が笑っている。

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