朝、呪術高専のとある教室。
夏油傑は授業を受けるついでに昨日の任務の報告書を提出するべく予鈴前のそこにいた。
少し遅れて扉の開く音とともに「あ、げとーくん! おはよお!」と可愛げのある挨拶。
「おはよう、おばけちゃん」
「昨日は任務だったんだ?」
「そうだよ」
「お疲れさまだねえ」
声の主はまるで絵本からとび出てきたようなファンシーな雰囲気の、まんまるおばけだった――おばけ、といっても呪霊の類ではない。あんなのよりよっぽど愛らしい。
その正体は、新しく級友となった少女――まあ現在彼女は保護されているだけで、明確には呪術師ではないのだが――がさして深くもない事由により深夜テンションで創りあげたふわふわもちもちな不思議生命体である。本人(?)の性格もその触り心地に比肩するほどふわふわもちもちの善性で、およそ陰鬱な呪術界に似つかわしくないほどの光属性。
きっと創造主の少女に似てこんなに警戒心皆無のお花畑みたいな性根なんだろうな、と夏油は思う。そんなの、口では言わないけれど。
丁度報告書の最終チェックも終えたところで手持ち無沙汰だった夏油はそのまま、ふわふわのおばけを呼んで己の膝上へと招いてやった。「わぁ〜!」とうれしそうに身を捩らせながら近寄ってくる様子に、人懐こい仔犬を幻視して癒される。
素直にかわいいのだ。
実際このおばけちゃん、性格も素直であるし。
夏油がこうして膝上に乗っけてやるのはこれが初めてではない。触っていると感触が楽しいし、ふわふわした会話でいるようで案外物事の本質を突くことも考えているこのおばけを構うのは予想以上に面白かったから。
だからうっかり、己の術式にまつわる悩みもポロッと零れるわけだ。
「ええ〜っ?! げ、げとーくん……美味しくないのにじゅれーをたべるの?!」
おばけちゃんが驚きのあまり夏油の膝上でぽてん、とひっくり返る。勢いあまっておにぎりだかどんぐりみたいにころころ転げ落ちそうになったが、夏油の大きな手でその未来は阻止された。「ありがとお、」と感謝されて、夏油は「どういたしまして」と定型句を述べる。
「……あの、あのね、言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどね」
「うん」
「その、えーと……」
ちなみにじゅれーって、何味がするの……?
恐る恐るおばけちゃんが尋ねた。
このとき、質問の意図が優しさに由来しているのを明確に感じとれたから夏油はあの忌々しい味わいを敢えて言語化した。
「そうだな……吐瀉物を処理した雑巾みたいな味、かな」
――瞬間、膝上で愛玩の涙腺ダムが崩壊した。
至福のもちもちタイムから一変、焦りの泣き止ませチャレンジがスタートしてしまった。
なんてこった。夏油はほんのちょっとだけげんなりした。
Now rolling, rolling and rolling.
おばけちゃんは転がりながらわあわあと大泣き。再び膝上から転げ落ちそうだったので夏油はおばけちゃんをうつ伏せに固定してやる。
しかしそのせいでおばけちゃんの涙が止まず瞳から零れ落ちていく。制服のズボンを数分もかけずベショベショにされそうだ。スコールに等しい激しさでなくものだから、夏油はどう対処していいものか困ってしまった。
ああ、ズボンの生地が湿ってきたな……雨で……。
動くに動けなくてアワアワまごまごしていると、再び教室の扉がガラガラと開いた。
「あぁ〜っ、やっぱり! もうひとりのぼくが泣いてる!」
「あらほんと、どうしたの?」
登校してきたもう1体のおばけちゃん(※おばけちゃんは複数個体いる)と、千代子。
丁度いいところに!
夏油は安堵した。千代子が無言でおばけちゃんに向かって腕を広げたので、即座に泣き続けるおばけちゃんを受け渡す。アアよかった、これでひと安心。ズボンは湿ったけど。
「なにがあったのかな〜?」
「ズビぐっしゅん」
保育士さんが幼児を抱くようにトントンと小刻みに揺れながら千代子がおばけちゃんに尋ねる。
未だおばけちゃんはぐずって泣き止まない。
「んん?」
「わ、わァ゛〜〜! おがあさ〜〜ん゛!!!」
「うんうん」
「あ〜! 泣かないでもうひとりのぼく〜!」
「ああ〜こっちも泣きはじめちゃった……よしよし、2人ともいい子ね〜〜」
結局遅れてやってきた方もつられて泣きはじめたため、両腕にまんまるを抱えて教室中を千代子が練り歩くことに。大丈夫、大丈夫よ〜、と宥める声がしばらく続いた。
***
「それで、どうして泣いていたの?」
「、ぅ……えっとね、」
「うん」
数分後、やっとおばけちゃんたちは泣き止んだ。
おばけちゃんと千代子は向かい合わせに座る。千代子は駄目押しにおばけちゃんの頬のあたりを両手で包み込んでいる。もちもち、もちもち。……ついでに手遊びもしていた。
一方で夏油はおばけちゃんの後頭部側の死角にちょっと距離を置いて座っている。さっきおばけちゃんの視界に入ったらまた(おばけちゃんの)涙腺が刺激されたから。
「げとーくんがね、」
「うん」
「おいしくないものたべるの」
「……んん?」
「ぼくね、おいしくないのに、げとーくんがじゅれー食べるのは、やなの」
「……そっかあ」
「……」
それわたしが聞いて平気な内容なのかな……と不安になりつつ千代子は話を聞いていた。向かいの夏油にアイコンタクトを送ると無言で首肯が返ってくる。どうやら千代子が聞いてもいいらしい。
「ぼくね、げとーくんが大切で大好きだからね、美味しいものいっぱい食べて、お腹いっぱいになって、幸せになってほしいの」
「あ、ぼくわかるよ! それ、『まんぷくしあわせぷろじぇくと』だ!」
「そういえば君たち生後数時間くらいで言ってたねえ」
「ぼくたちはがんばるひとのみかた!」
「! お、おいしいごはんで、にこにこげんき!」
「まんぷくしあわせぷろじぇくと!」
「たべることはいきること!」
「こうふくでせかいせいふくー!」
「「いえーい!」」
「言ってた言ってた」
「げとーくんは、がんばってるし!」
「優しーし! よく構ってくれるし!」
「にこにこ元気に生きててほしい!」
「ってことだそうです」
「……」
夏油は不思議生命体の健気さにノックアウト。
込み上げるものを誤魔化すように目頭を押さえた。
「だからね、ぼく考えたの!」
「……ん?」
話はまだ続いていたらしい。
「ぼく、ぼくね、げとーくんがじゅれーをおいしく食べられるようにお料理の修行しにいく!」
「あまりにも急展開」
「ど、何処に……どうやって……?」
「企業秘密!」
「生後数ヶ月で企業秘密を持つおばけちゃん……?」
「もうね、ぼく決めたの! たとえおかあさんが止めても無駄だからね!」
「そう……この時が来たんだね」
「千代子?」
「行きなさい、それがあなたの選んだ道ならどこまでも」
「何故……」
「でもたまに帰ってきてね」
「わかった! じゃあ行ってきます!」
「今?! 今から行くの?!」
「善は急げ!」
「気をつけていくんだよ〜」
行ってらっしゃい〜、と千代子が見送るために再度教室の扉をガラリと開けると、目の前で硝子が震えながら蹲っていた。
どうやらおばけちゃんの一大決心と千代子たちのやり取りで腹筋が死んだらしい。
「しょーこちゃん大丈夫……?」
「硝子ちゃん……」
「うーん、これはダメそうですね」
千代子はとりあえず修行に向かわなかった方のおばけちゃんに硝子を自席に運んでもらうことにした。
修行を決めた方は猛スピードで高専をあとにしたし、夏油は健気さパワーからまだ立ち直れないでいた。
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