蕚危機一髪 前編

 

 

「……しくじったなあ」

場違いすぎるほど明るく保とうとし、鼓舞に失敗した声音が薄暗い部屋に響く。千代子は苦虫を噛み潰したような面持ちのまま、カチカチと鳴く時計を眺めていた。

現在地、不明。千代子は事件の人質になっている模様。

ただ殺風景な直方体の部屋の中、手足を拘束されて寝具の上に放られている。ご丁寧に履物を脱がされているあたり、簡単には逃がすまいという犯人の執念すら感じられるようだ。間取りと内装からして、ここはやや老朽化したビルの一室だろうか。(表示時刻に誤りがなければ)気を失う前の時刻からあまり経っていないことと、窓から見える摩天楼の行列から推測するに恐らく首都圏内。

(……厄介なのが関わってなければ、だけど)

本来、このように千代子が“囚われの姫君”と揶揄されそうな事態に陥ることはまず有り得ない。彼女は(本人固有の特性上)人一倍気配に敏感であるし、警察学校在学時の教官にも一目置かれた程度には護身術にも明るい。となれば相手が近寄ってきた時点で即座に対応出来たはず……なのだが、現実は非情である。経緯としては(とんでもなく間の悪いことに)本日諸々の事情が重なってしまい心身ともに大変グロッキーな一日を過ごしていたところ、不意に事件に巻き込まれてしまった、ということになろう。まさか薬局で鎮痛剤ほかを購入した帰りに奇襲に遭うことになろうとは思ってもみなかったのだ。1回分、薬の服用を済ませた後だったことは今にしてみればラッキーだったかもしれない。

現在、所持品ほか千代子が身につけていたものは全て犯人によって隠されているようだ。
外部への通信を断ちたいのだろう、着用していた衣服のみで丸腰状態。乱れもないことから乱暴目的ではないと判定する。

ただし……。

一般的な時計と遜色なく働き者であると音で主張するこの時計、どうやらハラに自らの憤怒を撒き散らしそうなものを抱えているのである。

つまりは、爆弾であった。

(ほんとにこの町、殺意高いなあ)

すなわち千代子が(突如として)事件に巻き込まれているという紛れもない証左でもあった。モノローグこそ平素のゆるゆるさだが、内心かなり驚いている。21世紀にもなって一昔前のヨハネスブルグさながらの治安の悪さではないか?

もぞりと(無理のない範囲で)身動ぎしてモニターを確認してみると、爆発まではまだ時間の余裕があると知れた。猶予は(不幸中の幸いか)半日以上ある。逆に言えばその程度しか安心できる要素がなかったのだが、何も分からないよりはいい。

ただ、時計のガワを被っているこの爆弾の筐体、そこから構造を逆算して推測される火薬量を考えるに爆発されたらひとたまりもない。こんな至近距離ならまず即死だ。千代子だって例に漏れない。よしんば直撃を避けたとて、転移したその瞬間座標を誤ったなら無事では済まないだろう。尻もちを上手くつけるならいいが、もし頭から着地したり首の骨をやるような姿勢だったら? 下手すれば全身付随コース、はたまた別の死因を呼び起こすリスクだって否めない。体調不良からくる諸般のコントロール性能低下を考慮するなら、不用意に動かず今はじっと耐えるしかない。止める者もいないのに暴走するわけにもいかないのだ。それに、安静にしていれば多少は体調も回復するはずだし。

「……、」

とはいうものの、顔も声も何もかも知らぬ赤の他人から無遠慮に人生の時限を与えられそうになっているという現状は、どう考えてもストレスに違いはないのだった。苦笑しかない。

なるべく無理のない姿勢で、安静にすること数時間。
なんの前触れもなくガチャリと部屋の扉が開け放たれた。

「ッ、千代子ちゃん?!」
「?!」

先日気まずい空気になったばかりの相手がそこにはいた。

 

「萩原くん……?」
「​まさかこんな場面に出くわすなんてさ、人生何が起こるかわかんないね」

待ってて、今ちゃっちゃと助けっから。

千代子はウインク付きの光明を浴びて呆然とした。

 

 

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先日自らの気分を害したであろう相手にすらこんな対応をする人物だったのだと、千代子は萩原への認識を新たにした。元々周囲へのあたり柔らかくスマートな対応が目立つひとだとは知っていたが、こんなときにも発揮できるのだと。
あのとき感情のまま当たり散らした自分などよりよっぽど大人で、できた人間だとすら思った。

いま、萩原はしっかり防護服を着用していて、数分もかけず爆弾の息の根をそっと止めんとしている。
彼の手は澱みなく軽やかに作業を進めており、その動きに一分の迷いすらないのだから、爆弾の沈黙する時は近い。

「あの、」
「​───────千代子ちゃんが事件に巻き込まれてたなんて思いもしなかったよ」

ぱちん、ぱちん、と悪意の塊からその繋がりを丁寧に紐解いていく音が響く中、いつかの千代子のように独白の切り口は一方的だった。

「先日のさ、マンションの……あのとき確かに俺は根拠もない自信でいっぱいで、天狗になっててさ、そんで……死にかけた」
「……」
「そう、それでさ、きみに助けられた後、松田に殴られて。同じようなことも言われてさ、いろいろ考えたんだよ。きみの言い方は思い返してみても優しくなかったし、唐突に頭ぶん殴られたみたいな強烈なキツさだってあって……正直ムカつかなかったって言えば嘘になる」

けどさ、思ったんだ。
あのとき、俺が解体しきれなかった爆弾が、あの場で爆発してたらって。

きっと、きみのともだちの家は木っ端微塵だった。避難が完了していたから民間人の死傷者はなかったけど、爆発するのがもっと早かったらと思うとゾッとするよ。
きっと、爆弾の至近距離にいた俺は物言わぬ肉片になって、どうしようもねえ有様になっていた。現場にいた仲間たちだってそうだ。誰が“どれ”だかわかんなかったかもしれない。
きっと、まともな遺体なんかほとんど入ってない棺桶で遺族が、残された仲間たちが、葬式を開くんだ。消えない傷痕を遺されて、“今”に置いていかれる。

 

​───────パチン。
その音を境に、萩原の手が止まった。
示すは、音もない勝利の勝鬨。
物騒な時計はもう腹を空かせていない。

 

 

「……なあ、もしかして俺にああいう言い方してまで伝えてくれたのって千代子ちゃんも昔、“誰かに置いていかれた側”だったから?」

核心をつくような萩原の言葉に、千代子はヒュ、と息をとめた。

「ごめん、デリケートな話題だよな、言いたくなかったら言わな​───────」
「そうだよ」

萩原くんの予想、合ってるよ。
ただ、これはきみにひどい言い方した免罪符にならないし、しちゃいけない。

「……聞いても、平気?」
「いいけど、聞いても面白くないと思うよ」
「……。じゃあさ、“俺にひどい言い方したお詫び”に話してくれる?」

一拍置いて千代子は頷いた。

「でもま、こんな汚ぇビルの中で聞くことじゃねえからサッサとお暇しようぜ」

今日はこの後フリーだからさ、よかったら松田誘ってうまい酒でも飲みながらとかどう、と萩原が笑った。

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