――はじめてあんたに遭った日のこと、未だにおぼえているんだ。
ふわふわ、ゆらゆら。夢の中なのに、あったかくて、やさしくて、でもどこか寂しい心地がした。
「……あれ? こんなところにお客さん? 変なこともあるものだねえ、こんな辺鄙なところにひとがやってくるなんて……ほーんと、珍しいこともあったもんだ」
「……あんただれ」
目の前には、腰よりも長く黒い髪を伸ばした女……か? 目は自分と違って紅く、つり目がちで少しキツそうな顔立ちはあるが、浮かべる表情や纏う雰囲気がそれを随分……いやひどく和らげている。
「わたし? わたしはね、千代子。あなたは?」
「……、あやしいやつなんかになのるようななまえはないよ」
「わあー、防犯意識が高い! とてもいいことだねえ、じゃあ君、とでも呼ばせてもらおうかな!」
呼びかけるのに便利だものね!
言動までゆるかった。なんだこの女。ふと、見回したところで、いつもの屋敷の風景は欠片もない。ただ、ぼんやりとした輪郭の、よくわからない空間があるだけだ。
「ここはどこだ」
「ここ? んー、わたしもよくは分からないんだけど、んん……そうだな、1番近いのは『夢の中』、かなあ」
どうやらね、わたしの夢と君の夢が、天文学的な確率でもって、ぶつかっちゃったみたいなの。それでね、その結果、このへんてこな空間ができちゃったみたいなの。あ、そうだ、みてみて、と言いながら女は、女の顔のすぐ横で両手のひらをひらひらとしたあと、両手を椀のようにしておれの前に差し出して見せた。
何をされるか分からなくて、とっさに両腕で顔を隠した、……が、特に何も起こらない。
「……?」
そっと腕を下ろして前をもう一度みると、女の手のひらいっぱいに花が咲き乱れていた。さっきまで、手にはなにも持っていなかったのに?
「……あ、ごめんごめん、初対面なのに馴れ馴れしすぎたかな、ただ手品でも見せて面白がってもらおうと思ったんだけど……怖がらせちゃった? ごめんね」
「こ、こわがってなんかねーよ!」
そう、こわがってなんかねーし。
てか、それどーやったんだよ!
ちょっと恥ずかしかったのを隠すように噛み付くような勢いで聞いてやると、女はぱぁっと笑顔になって仕組みを懇切丁寧に教えてくれた。……急に花が咲いたのはどうやら術式ではないらしい。どんな術式を使ったんだ、と問いただしても、女は「術式……ってなに?」とぽかんとしただけだったし、夢の中とはいえ特別製のおれの目にも術式とは映らなかったからだ。
……その日から、数日に1回、夢の中で女――千代子と逢うようになった。
千代子は、彼女は、おれにいろんなことを教えてくれた。
おれの「どうして?」をやさしく拾い上げてくれて、夢の中だけど千代子が本や映像でもっていっしょにその謎を解く手伝いをしてくれるし、おれの日常を「うんうん、それで?」といつも聞いては「そっかあ、君はそう思ったんだね?」などと気安く相槌をくれる。いちど、子ども扱いしてるのか、なんて聞いたが「えぇ? とんでもない、年齢がどうあれ君だって立派なひとでしょ、どうして子ども扱いしなきゃいけないのさ、必要ならするけど、ここではそういうの要らないでしょ」と返ってきた。
この前だって、千代子は「雲をよく観察して、その形から天気予報とかできたり、災害についてわかったりすることもあるって知ってた?」なんて急に言い出した。当然そんなこと気にしたこともなかったから、「は? しらね」なんて返答してしまったけど、千代子といえばしたり顔で「……わたしたちで、ほんとうにそうなのか、しらべてみませぬか?」なんて妙に芝居がかった口調で言う。そのしたり顔と言い回しがちょっと面白くて、「……しかたねーな! てつだってやるよ!」とそっぽ向きながら言ってやった。
「とはいうけどさ、千代子さ、ここから天気見れなくない」
「あっ」
「おまえけっこうぬけてるよな」
しかたねーから、ほんとの天気はおれが見てきてやるよ。
だからそのかわり、ここでの本さがしはてつだえよな。
千代子はうれしそうに笑って頷いた。
「あーあ、写真もいいけど本当の空が見れたら、きみの目の色だなーって眺めちゃうのにな」
「急にどうした」
ドキッと謎の動悸を覚えつつ、千代子に出してもらった本を見る。
雲。
雲と言っても色々あった。
基本の十種……巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、乱層雲、層積雲、層雲、積雲、積乱雲……。
「積乱雲はきいたことあんな」
「どこで?」
「ジブリ」
「あー、」
「ラピュタ」
「お空に浮いてるお城が積乱雲の中にあるんだっけねえ、だから積乱雲みるたび、あっラピュタだあっ! って思っちゃうんだよね」
「まじ? 千代子ほんとおまえゆるいな」
「えー? そんなゆるい?」
「ゆるい」
「そーかなー」
「ぜってーそう」
「そっかー」
「ウン、……てか千代子さ、おれのことなまえでよばねーの? よべよ」
「呼んでもいいの?」
「いいからいってんだろ」
「でもさあ、君から名前教わってないよ」
「……、…………五条、悟」
「ごじょうさとる……、さとるくん。どんな字?」
「……こう」
千代子の手のひらに、自分の名前を漢字で書いてやった。どうやら千代子は手のひらを触られるのが少し苦手らしく、くすぐったそうにしていて、「がまんしろよなっ」「ひゅふぁ、ふぁいっ」という会話を何度か繰り返した。……なんだか変な気分だった。
「へえ〜〜! かっこいい名前だねえ! 悟くん、かあ……!」
くふくふとあんまりうれしそうに笑って、「さとるくん、悟くん、」なんて自分の名前を何度も呼ぶもんだから、おれはこころの底を羽かなんかでくすぐられたような気持ちになった。……なんだこれ。
千代子は、普段屋敷ではできない遊びとか、ゲームとか、アニメや漫画の話だってしてくれる。今日だって、デジモンの話をしたし、なんなら不思議な力で現れた大画面のテレビでいっしょにデジモン見たし。
「進化するとこ、かっこよかったねえ……今日なんかメタルウォーグレイモン出てきたし!」
「わかる?!!! あいつめっちゃかっけーんだ!!!」
「わかるよ! ぐわーってがおーって!」
「そうそう!!!!!」
「「もうさいこうだったねっ!」」
ここでどういう原理が働いているのか俺にはわからないし、この空間の主であるはずの千代子にも詳しいことはよくわからないそうだ。だけど、どうやら「おれが見聞きしたこと」や「千代子が見聞きしたこと」がここではほぼそっくり再現できるらしい。意味わかんねーけど。
ただ、ここでのおれは「五条悟」として求められているんじゃない、千代子はおれをただの「さとる」でいさせてくれる。
こんなことははじめてだった。なにも取繕わなくていいし、誰の目も気にしなくていい、気を遣わなくても(人の目を気にしたことも、気を遣ったことなんかもねーけど)、好きなように話して、好きなように息をしてていい。誰にも咎められない。
千代子に遭って、はじめて知った。
そんなやつ、今まで居もしなかったから。そんなこと無条件でさせてくれるやつ、誰もいなかったから。
おれの、秘密。おれを、ただの「さとる」でいさせてくれる秘密のおまえ。
千代子、千代子。その名前を口に含むだけで、なぜだかこころが跳ねるようによろこぶんだ。
だけど、いつしか逢える日は数日から十数日、数週間、数カ月、……だんだん間隔が空いていく。
「なぁ、千代子」
「んん? どうしたの、さとるくん」
「……なんでもねーよ、呼んだだけ」
「えへへ、なんだそりゃ、かわいいな」
「うるせ! かわいいとかいうな!」
「ごめんてー、ゆるしてよお」
「……ふんっ、しかたねーな」
聞きたいこともなんとなく聞けずじまいで、そのたびはぐらかしては怒ったフリをして、「ごめんね、ゆるしてよ、」なんて言わせて、なかったことにしたのが悪かったのかな。
そんな会話を最後に、ついに千代子とは夢で逢うことがなくなった。
待てども待てども、夢の中で千代子には逢えなくて、どうして、どうして、と問うても誰も教えてくれない。それはそうだ、ずっとこころの中で、問うているのだから。だれにも知られたくない、秘密のお前だから。
でも。
なんで、なんで?
どうして?
どうして、どうして?
――……、さびしい。
そうして高専に入学してからも、千代子には逢えなかった。
逢えない、はずだった。
けれど、ある日寄越された任務の資料で、見覚えのある顔、名前。
「真理江、……千代子」
思わず手渡された資料を一瞬握りこんだ。……ちょっとしわがついたな、まぁいいや。
お前、夢の中の住人じゃなかったんだな。自分でいったくせにファンシーな言い回しすぎていま少し鳥肌たったけど。
……気づけば傑や硝子たちを置いてけぼりにするかのごとく爆速で任務を遂行し、施設をぶっ壊したことなどについて夜蛾にキレられたりしたけど、そんな些末どうでもよかった。
はやく、はやく千代子に会いたい。いまは気絶しているようで眠っているようだけど。会って、話をしたい。あいつ、なんて言うかな、「悟くん、しばらく見ないうちに、ずいぶん大きくなったねえ」……言いそうだな。「悟くん、元気そうだね」……きっと言うな。「悟くん」「悟くん」「悟くん」……はやく呼んでくれないかな。
逸る気持ちがどんどん歩調を速める。
千代子のいる部屋の扉を開けて、起きた状態のあいつを見つめて、見つめかえされたまではよかった。
「やっと、やっと『こっち』で逢えた……目が覚めたんだね、あんた」
「……?」
千代子、俺の顔を見て、なんのことだと言わんばかりに疑問符浮かべやがった。
ま、まぁ、俺がバカみてーに大きく顔立ちもよろしく育ってサングラス掛けてたからわかりづらかったのかもしれないし?
……しょうがねえ千代子だな。
けれど、待てども待てども、千代子は期待していた反応を見せてくれない。
もしかして、顔や名前が同じだけの他人だったろうか。もう、千代子はいなくて、もう一生逢えないだろうか。
そんな恐ろしいことを考えついてしまって、泣きそうだったのを隠すために推定千代子の腹部に、ただの小さな子どもだったときのようにぎゅう、と縋り付いた。
しゃらり、しゃら、わしゃしゃ。わしゃ。
どうやら頭を撫でられた。
あぁ、……「千代子」だ。
この力加減や撫で方は千代子だ。間違いなく、「千代子」だ、おれの知ってる「千代子」に間違いない。
いまはなぜだかわからないが俺のこと全く覚えていないようだけど。
お前は確かに「俺の知ってる千代子」だよ。
お前に撫でられるだけでどうしてこんなにうれしいんだろう。
いまは気分がいいから、俺たちがはじめてあったときのことだって、なんだって話してやるよ。思い出すきっかけになるかもしれねーからな。
なぁ覚えているか、いつだったか「雲の形から災害がわかる」とかなんとか言ってたろ、あれ、結局、いろんな書物を使用人使ってでもかき集めて、買いに走らせて、それ全部本棚に並べてあるんだ。なんなら寮に持ってきてあるんだぜ。
なぁ、なぁ、千代子。
――、早く思い出してね。
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