奇襲をかけるなら夜だ。
恐ろしいほど深い夜の暗闇がこのときばかりは味方してくれる。
つまり、やるなら今だ。
ちゃぷん。海面から顔を出したタイガーが、意を決してひとりその断崖絶壁を登ろうとしたそのとき、「わたしも連れてってくださーい」とほんの数刻前に聞いたばかり・もう別れたはずの、気の抜けるような女の声が急に聞こえた。
「ッ?!」
声を辿って振り向くと、居た。
人間の女───────確か名を、チヨコと言ったか。
女が、海の上を歩いている。
もしやこの女、能力者だったのか?
波の音に紛れてタイガーの背後をとるとは、只者ではなさそうに思える。
魚人は人間よりも身体能力に優れている、というのは一般的見解だ。実際、海底1万mの水圧にも耐えるうえに水中を滑るかのようにとんでもないスピードで泳ぐとあれば魚人や人魚の身体能力の高さは確かなものと言えるだろう。
───────そのはずだが、この女は。
「あ、驚かせちゃいました? ごめんなさいね」
「なぜ居る」
「なんとなくです。わたしやフォスが話してるときも、ふとした瞬間にどこか覚悟キメてる表情してたから」
きっとこの先にご用事がおありなんでしょう、手伝いますよ。
女が世間話でもするような軽さで言う。
「マリージョアって、天竜人とかいうふんぞり返ってる人種の方々がいるところだって聞いたことがあります」
理由はどうあれ、そんなとこにお兄さん1人で乗り込むなんて無謀にほど近いことするのは見過ごせないのでわたしも連れてってくださいな、と言葉が続く。
何故だと問うと、
「フォスを助けてくださったし、シンシャにだって優しく接してくれた。それだけですけど、“それだけ”のことをしてくれた。ああやってあの子たちに接してくれる人っていうのはそう多くないですからね」
だから要はお兄さんへの恩返しってとこです、と女は宣う。
しかしタイガーは恩返しをされるような、そんな大したことをした覚えがない。ただあのうつくしい宝石たちの話を(嬉々として)聞いただけに過ぎないのに。
「あの子らはどうした」
「ふふ……もうすっかりとっぷり夜ですからね、健やかに船内のベッドでぐっすり。ありゃ明日の朝まで熟睡コースですねえ」
大丈夫、あの子らは安全なところに避難させたので。後で合流しますし、できます。のほほんと女が笑った。
「わたしのこと、出会ったばかりで信頼しろだの信用しろだなんて言いません。ただあなたの気に障るなら、あなたの邪魔をしてしまうなら、これからあなたが成すと決めたことを成し遂げてからどうとでもなさい。何をされても文句は言いませんから」
あ、攻撃されたら反射的に避けるかもしれませんけど。
言ってることがめちゃくちゃだ。死にたいのか、生きてあの宝石たちと旅を続けたいのか、一体どっちなんだ、とタイガーは言葉を失った。
コイツの実力なんか知らない。気づかれないままタイガーの背後に忍び寄った実績があるとはいえ、今だって酔狂なか弱い女としか思えない。
しかし、啖呵を切る度胸はあるというアンバランスさ。
なんとも珍妙な女だ。
……まあ何か不都合があれば、自分がどうにかすればいいだろう。これにかかずらって時間を食うより、はやくこの崖の上に辿り着いて奴隷の身に堕とされた者たちのもとへ向かわねば。
思考に一旦ケリをつけて、彼は「……着いてこい」とだけ女に告げ、再度崖を登り始める。
「はーい」
やはり女は、場違いに気の抜けるような声音で返事をした。
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