「───────世界でいちばん暗い時間帯がいつなのか、知ってる?」
星空の下で、深い海のごとき髪を風に弄ばれながら、月明かりに照らされて人間の女がわらった。
おれは、そのとき何と答えただろうか。
*******
海底1万mにある魚人島から離れ、どれくらい経っただろう。
海をひたすら泳ぎ続けて、レッドラインにある聖地マリージョアへ向かっていた最中だった。
フィッシャー・タイガーの進行方向、海上に1隻の船があった。
海に船とあれば、十中八九乗っているのは人間。なるべく関わりあいになるのを避けたくて、サッサと場をあとにするべく泳ぐ速度を上げた……その時だった。
目の前に、大量の泡とともにドボンと人間が落ちてきたものだから驚いた。
そして彼は───────、
「やー、さっきはありがとうございました!」
「いや……たまたま目の前にお前たちがいただけだ」
人間を救助していた。
自分でも何をしているのだろう、と思う心はあった。
人間に、人間どもにされてきたことを忘れたか?
───────否、否。
一度だって忘れたことはない。
けれど、考えるより先に体が動いていた。
「でも僕、本当に助かったんだ! ありがとう!」
「……感謝する、三半を助けてくれて」
かけられた言葉に、魚人への嫌悪の色は全くなかった。
純粋な眼差し、無垢な笑顔。
ただ個人として尊重される温かさ。
そのせいか己も、その言葉を当たり前のように受け取ることが出来た。
この船は、ヒトの形をした宝石たちが暮らす“丘”から出航した《外界調査隊》のものだという。人間の女1人と2人の宝石が協力しあって、世界中を旅して回っているそうだ。
3人で海を渡るには随分と大きい船である。女が言うには、「昔にちょっとしたご縁があっていただいたんですよ」とのこと。
先ほどは船内に駆け込もうとしたところ、フォスと呼ばれている1人の宝石が体勢を崩して海へと落下。それを追いかけて人間の女が海へと飛び込んだら、偶然自分と鉢合わせた……というのがことの経緯らしい。確かにフォスはただの人間らしからぬ硬さがあって、薄い緑色に光り輝いていた(物理的に)。
「この辺りの島は人攫いも多数横行しているらしいから、アンタらなんか格好の餌食だろうよ」
「これはこれはご親切に。肝に銘じておきます!」
「ます!」
「あ、お礼と言っちゃなんですがお茶でも1杯いかがですか?」
「ハ? ……いやおれは」
「僕、用意してくるねっ!」
「待て三半、1人で行動するな。お前は分量をよく間違えるだろ」
「シンシャ、そっち頼むね」
「…任せておけ。───────おい三半、他人の話を聞け! 突っ走るな!」
タッタッタッと軽快に、シンシャと呼ばれた少年がフォスの後ろを追う。お茶はすぐにご用意できますからね、と目の前の女がわらった。
サッサと船から去ろうと思っていたのに、予想外に押しは強い。それでいて気が抜けるほどの突き抜けたお人好し具合だ。この人間の女にしろ、フォスにしろ。シンシャと呼ばれたもう片割れだって態度はあからさまでないものの、彼らを止めないあたり同類だ。
そもそも歩く宝石なんて、珍しいどころの話じゃないだろう。特に《お貴族様》など、目の色変えて「アレが欲しい」と騒ぎ立てるに違いない。現にこのフォスや、そのすぐ傍にいるシンシャの美しさを目の当たりにして、確信は深まるばかりだ。彼らの言い方から推測するに、彼らのような宝石はもっといるはず。公に存在が知れたらきっと手当り次第乱獲されて、下手すれば人魚よりも希少価値の高さから瞬く間に売り捌かれて……。
ああクソ、考えるだに胸糞悪い。
“こんなとき”でなければ、彼らに詳しい話をもっとたくさん聞かせてほしかった。しかし、自分には今、向かうべきところがある。成し遂げねばならぬことがある。
出された茶(……ちょっと渋かった)を啜りながら、タイガーは口惜しく思った。茶請けにと出された甘味に故郷のものと違う風情を覚えつつ、フォスや人間の女の話に耳を傾けるのが純粋に楽しかったからだ。冒険家としての血も騒ぐほどの出会いと称してもいいくらいには。
このとき、タイガーは自分のことなのにひどく不思議だった。過去、人間に酷い目に遭わされたはずなのに。
こうも(同一人物ではないにしろ)人間相手に穏やかな気持ちになったことが、話を聞かせてほしいと思ったことが、こんなに時間が過ぎるのが速いと感じたことが。
(……こいつらが底抜けのお人好しだからかもしれない)
そして、案外悪い気がしなかった。
「───────それで、お兄さんはどちらまで? 良かったら近くまでお送りましょうか?」
「いや、いい。気持ちだけ受け取っておく」
……茶、うまかった。ありがとよ。
タイガーの言葉に、ひどく嬉しそうにフォスが「うん!」と答えた。まるで親の手伝いをしたがる幼子のような仕草だ。それが故郷の童たちを思い起こさせて、タイガーは決意を固くした。
自分の都合にこのお人好しどもを巻き込むわけにはいくまい。なんといっても、これから向かうのは《お貴族様》の本拠地なのだから。
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