あの日、わたしは 破

段々と千代子と仲のいい月人たちが増えに増えて、体調も(亀の歩みとはいえ)少しずつ回復して、月でできたともだちと春を満喫していたある日にすべて反転した。

「…………えっ?」

順調だと思っていた全てがひっくり返されてしまったのだ。

千代子は言葉にできないほどの裏切りに斬り刻まれた。

やさしいにんげんなんて、ここにはひとりもいなかった。

すべてのやさしさがウソではなかったはずなのに、今となってはあまねくウソとなってしまった。ただのハリボテにありがたさを感じていたことになってしまった。

千代子のこころも身体もなにもかもが暴かれてズタボロにされて、尊厳なんか元々なかったかのようにそのへんにバラバラになって、ボロ雑巾の方がまだマシなくらいの状態で捨て置かれている。

そして己をその手で月へと誘った男は、目の前で身体を揺らしながらわらっていた。

訳がわからなくて……気持ちが悪い。

(……なんでこのひと、こんなふうにわらってるんだろう)

千代子には分からなかった、いや、分かりたくなかった。
だって、心の奥で「ぜんぶ、こいつだよ」と慟哭する自分がいる。
知らないフリが、できない。

(そんなにおもしろいことが、あったかしら)

為す術もなくその揺れに巻き込まれて、千代子は回らぬ頭を必死に回そうと悪あがきした。ただ吐き気がするだけで、意味はなかった。

ただ、千代子は悲しかった。つらくて、痛かった。
涙もぽろぽろ流れたけれど、すべて悲鳴ごとやわらかな寝具が吸ってしまってそれきりだ。

男はずっとずっと、わらって揺れていた。
千代子はずっと、その揺れに翻弄されていた。
それしかできなかった。

哀しみと怒りと、やるせなさと、それからあらゆる感情がごちゃ混ぜになってどうしようもなくなって内側から爆発しそうな心地を得て、その感覚に身を委ねた。
吹き荒れる風が、身体の熱を少し冷ましてくれる。

……あ、さっきより、少し楽だ。

そんなことに気づいた千代子は、ハッとして火事場の馬鹿力でもって咄嗟にすべてを押しのける。
ついに距離をとることに成功した。

何もかもボロボロで、しかも裸足だなんて気にもとめず、悪夢の迷宮のようなこの場から1歩でも遠ざかろうと思った。

後ろから追いかけてくる男や、周囲の月人たちから逃れるようにして月の端、地球にいちばん近いところへと走った。途中、何度も月人どもに捕まりそうになってヒヤヒヤしたが、なんとか捕まらないで走り続けている。

いま、風のようには駆けることができない。脚が思うように動かないのだ。それでも一般人よりはずっと疾いけれど。

走っていて、ああ、きっと狩りをする肉食動物のように遊んでいるつもりなんだ、と嫌なことに千代子は気がついてしまった。

(あいつらにとってわたしが、捕食される側か)

確かにそうだ。今の自分は、一般人よりも非力だ。

だって今のこんな速度じゃ、いつだって捕まえられる。
それなのに、こうしてわざと追い詰めるだけ追い詰めて、後ろでわらっている。思うように誘導されているのだ。

ほら、あの楽しそうで悠々とした、のんびりした歩調を見ろ。
自分こそが連鎖の頂上にあるとこちらを見下ろしている。
お前なんていつでも食いちぎれるのだと自慢げに。

(……仮にも、あんなのが“マスター”だなんて、冗談じゃない)

サーヴァント用の召喚陣を転用して喚びだされたのくらい、最初から千代子にも分かっていた。しかもマスターが誰なのかもわかる。しっかりとパイプラインが出来上がっているのだから、わからないわけがない。

そう、だから千代子には、何故こんな風にことを進めたのかも分かった。“アレ”があのとき千代子のことを理解出来たように。いま千代子は人間の身でありながら(どういうわけか)サーヴァントとしての身分となっているが故に、伝わってくる。

永遠に在ることの苦痛を延々と味わわされる月人たちはもう、すぐにでもこの世から逃れて、終わりを迎えたいのだ。

だけど、当初用意してあった・予定していた方法はどうにも不安定で頼れなくて、それでいて喚びだした人間は月人と違ってすぐ死んで、半ば八つ当たりのようにわざと千代子を傷つけたりなんかした。これはついでのようなものなのだ、月人にとっては。

待ちきれないから意図して傷つけて、ついでのように破滅を導いてでも“終わろう”とする身勝手さに吐き気すら覚える。

もう成仏するのも、魂が消費されて消えるのも同じことだと考えたらしい。

この世から消えるならそれは、《終わる》ということと同義だと。成仏するほうが遥かに幸福だろうに。なりふり構わずといった傾向が目立つがなるほど、月人は停滞ばかりで気がどうにかなりそうなのか。永遠を捨てて早くこの世から抜け出したくて仕方がないからこんな性急に杜撰なことをしたのか。

狙っていたのは《魂喰い》なんだろうな、と千代子はどこか遠くの冷静さで呟いた。

《魂喰い》というのは、召喚された“英霊”がエネルギー源として生き物の魂を溶かして摂取することだ。これにより、魔力を補給することができる。

つまり月人は、千代子に憎悪のまま全ての月人を喰い殺させようとしたのだ。

みんな、とっとと終わりたいから、もはやこの世から抜け出せるのなら、執着たっぷりのそれでよくて、「死を安寧とし、死そのものを幸福とする」くらいの勢いなんだろう。魂を分解されるのも、溶かされるのも、そう変わりないと思ってしまえるほど狂っている。千代子からすれば捨て鉢すぎるけれど、それさえも許容してしまえるほど月人というのは倦んでしまった生き物なのだと認識させられてしまう。

純粋に気持ち悪い。
なんておぞましいことを、押し付けようとしたんだろう。
頼まれても、そんなことしたくはない。

わたしは、殺戮(そんなこと)をするためによばれたっていうの?

わたしからは、絶対しない。
そもそも今のわたしは本物の英霊ではないからできないし。
​───────令呪で“重ねて”命令されない限りは。

だいたい、最初あんなに英霊だのを喚んでおいて、令呪のことはあまり調査しなかったのだろうか、と千代子は今になって不思議に思った。……いや、きっと調査しようにも出来なかったんだろう。理由や経緯はどうあれ英霊が口を割らなかったのと、もっと別のことに注目して手が回らなかったから、千代子は今の今まで無事だった。アレの記憶によれば、そういうことだ。もしも千代子がもっと遅くに喚ばれていたら、もしかしたかもしれないが。

​───────実は“マスター”はもう、千代子に1度令呪を使っている。

ひとつ、​“その身を蝕む苦痛が軽減されるように”。
この願いこそが千代子の背を押し、足を踏みとどまらせる。なぜならば、この願いは明らかに千代子の抗いようのない不調を改善したからだ。今にして思えば「計画的かつ盛大な裏切りの前段階として与えられてしまった恩」のひとつなのだろうが、きっとマスターなんてものをしているどこぞの誰かの気遣いでもあった。ひとり苦痛に喘ぐのを哀れんでいたに違いない。倫理観も何もかも永い時のなか失われてしまっただろうに、そんな気遣いなどしやがって。それを与えてくるくらいなら今すぐにでも元いた場所へ還してほしい……叶わないだろうけれど。

ともあれ、令呪はまだ残っているようだが流石においそれと消費するのには気が引けるらしい。おそらくマスターは“千代子が経験した聖杯戦争の記憶”から、令呪の用途を多少学んだのだろう。

1画だけでもあれば、アレは千代子を縛りつけておける。
けれど千代子を服従させたうえで月人の終焉を命じるにはあらゆるものが足りない。

少なくとも、今はまだ。

いくら千代子に怨嗟の種を撒いても、まだ芽が出たばかりのそれだ。発芽したなら、芽は育てるにかぎる。
加えて千代子は快復していないのだから、月人すべてを屠るとしても途中で止まってしまうかもしれない。不確定要素ばかりの今、残りの令呪をすべて切ってでも“マスター”が命じてくるとは考えにくい。アレは、確実性のほうを優先させるだろう。

それに、千代子も縛られてやるつもりなんか毛頭ない。
弱体化してなお千代子の魂は、急造の聖杯の紛いものから配布された令呪(そんなもの)なんてものに縛られるほど落ちぶれてはいない、……と言えたらどんなに良かっただろう。心持ちは充分あるけれど未だ万全の状態ではない。令呪は令呪なので抗いきれるかは未知数だ。

ああ、あのキャスターみたいに、与えられてしまったルールをぶち壊せたら良かったのに。

そうすれば、他人にいいように使われて、殺戮の道具などにされないで済むはずなのに。

そういう苦い思いを抱えたまま、千代子は月の最端へと辿りついた。

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