(こ、困ったなあ、)
現在正午過ぎ。
黒塗りのセダンに揺られながら、千代子はひとり頭を悩ませていた。
(高専には入学したことになっているけど、呪術師としてじゃなくて……正確には『保護観察対象』としてのはずなんだけどなあ。その前提で両親も入学に前向きだったわけで……)
まったく面倒なことに巻き込まれてしまったや。
千代子はため息をひとつ。
運転席に補助監督。
助手席は空席。
後部座席には千代子、そして右隣にはやたら馴れ馴れしい名も知らぬ術師。距離感が気持ち悪い……っていうか補助監督の名前も知らないなあ、最早どうでもいいけど。
まともな説明もないまま、「我々の世界では人材不足が常ですからね」「あなたみたい女でも多少は役に立つでしょうし」「時間も惜しいのではやくこちらへ」とかなんとかまくしたてられて、(真偽も定かでないのに)同級生たちが赴くような任務とやらに連れて行かれている最中だもんで、さっきから気が滅入る。
現在進行形で喋り続けている術師なんか無視だ、無視。
(なるほど、ちょうどみんな任務で出払っちゃって居ないところを狙われたんだな)
抵抗しようにも、自己判断しようにも、誰かを頼ろうにも、出来なかった。下手に動くのは得策ではないので。
……ぐぅ。
千代子の腹の虫も、困り果てたように鳴いた。
(そういえば、お昼ご飯食べ損ねてるんだよな……ああ、お腹すいたなあ)
着の身着のまま連れてこられたため、いま千代子の手元にあるのは昼食(オムライス)の材料になるはずだったケチャップ1本(300g)くらい。むしろなんでケチャップ1本持ったままの状態を許されているのか当の千代子さえも疑問に思っているが、相手と会話をしたくないので真相は迷宮入り確定だ。つまりさっきからケチャップ所持して会話を拒絶してるってわけ。
(ケチャップを所持してはいるが)手持ち無沙汰ゆえに千代子が無心で窓の外の景色を眺めている間に目的地に到着したらしい。降りるよう促され、とりあえず無言で降車してやる。
場所は、廃れて久しいのだろう病院だった。蔦が壁一面に生い茂り、堅牢なはずだった壁は風化したせいかところどころボロボロだ。いかにも心霊スポット、といった佇まいともいえる。
千代子は相変わらず「ぐーるぐる……」と主張する腹の虫をどうすることもできないまま、廃病院の内部に足を踏み入れる面々に引き摺られるようにして歩いた。
(あ、ケチャップを車に置いてくるの忘れちゃったや)
まぁいっか、車内の気温でダメにしたら勿体ないし。
食べ物は大事にするべきだし。
千代子は静かにウンウンと頷いた。
***
「、は?」
千代子が居ねえんだけど。
教室にも図書室にも体育館にもグラウンドにも学食にも寮にもどこにも居ないってどういうワケ?
あいつ、ひとりで外出するの禁止されてたよな?
とりあえずそこら辺にいた補助監督をとっ捕まえて締めあげて事情聴取した結果……、
「はァ?!! 任務だァ?!!!!!」
五条悟は噴火寸前だった。
面倒臭い任務(もちろん成功した)から帰ってきたから、千代子にお出迎えしてもらおうと思っていたのに。
どういうことだよ。
一緒に戻ってきた夏油傑もあまりの急展開に五条の隣で困惑と苛立ちの表情を隠しもしない。千代子が居ないということは、やたら夏油が気に入っているあのまんまるおばけもいないわけで、その衝撃は一入なんだろう。知らんけど。
それはともかくとして。
……おかしいのだ。
(千代子は保護観察対象者扱いで高専に入学してるから任務とか全面的に免除されてるはずなんだけど?)
代わりに呪具だの呪物だの作成するためのカリキュラムを受けているはずの千代子が何故?
疑問は次から次へと湧きいでるばかりだが、それらにかまけて悠長なことはしていられない。
「あークソッ」
「まずいな……もう連れ出されてから推定数時間は経つんじゃないか?」
とにかく動機の考察より何より先に迎えに行ってやらねば千代子が危ない。もう既に危ない目に遭っているかもしれないと思うと五条は居てもたってもいられなかった。
呪霊なんぞとまともに戦ったことすら無いだろう。普段の様子から類推できる。補助監督からひったくった資料を見るにそれなりの等級が振られている任務であることからしても、一刻も早く辿り着いてやらねばなるまい!
……と、五条悟のことをそれなりに知っている人間が彼の脳内を覗けたならそのあまりの異様さに卒倒するような、彼にあるまじき思考回路と行動原理だったろう。なんといっても五条悟は傍若無人と唯我独尊(※本来の意味ではなく)の擬人化した姿と言っても過言ではないと認識されているので。
「悟、焦っても仕方ないよ」
「うるせえなそんなこと分かってんだよ! いいからお前も付いてこい」
「言われなくとも行くさ、同期の命がかかってるんだからね」
「あっ、オイ硝子! ちょうどいいわお前も来て!」
「ハ? なに急に?」
「千代子がピンチ、詳しくは後!」
「、りょ〜かい」
これまた任務帰りだった家入硝子を行きがけにヒョイと(※丁重に)拾って、五条と夏油はことの経緯を彼女に説明しながら現場へと向かう。余談だが、夏油も硝子もこの時「五条悟(コイツ)、千代子が絡むと良くも悪くも豹変するなあ」と思っていた。
移動手段は夏油の呪霊(飛行タイプ)、ナビゲーションは五条(の六眼)、コメンテーター兼もしものときの回復役は硝子(シラフの姿)という完璧の布陣だ。
(無事でいろよ……千代子ッ……!!!)
五条は己の手をぎゅっと握りしめた。
***
「あれれ」
補助監督が帳とかいう結界を貼ったのち、呪術師に引き摺られるようにして廃病院へと(不本意ながら)足を踏み入れることとなった千代子は、状況のまずさに反して呑気な声をあげた。
同行を強要した呪術師と十数分前にはぐれてしまったのだ。変な空間に入った感覚があるし時計の針も動き方がおかしいから、本当の時間の進み方はわからないけれど。
……いや正確にははぐれてしまったというより“意図的にはぐれさせられた”のだ。理由はだいたい察しがつく。
とにかく、いま千代子は廃病院のどこかで一人ぼっち。
内部の地図がわからない上に、生来の迷子癖が起因して現在地が不明なのであった。
ああこれは困ったことになったぞぅ。
果たして安全にこの空間から出られるかなあ。
(あれと一緒に息するのちょっとイヤだったからそれよかマシだけど)
それにしたって、非戦闘員扱いのはずの人間を無理やり引っ張ってきてそこら辺に放置するとはすてきな性根をしていらっしゃることよ。
ふふ、と千代子は嗤った。
「キュルキュルキュル……、」
部屋を探索していると突然、千代子の笑い声ではないものが一室で響いた。
もしかして、これが。
「ァ、ア゛アァ……オガアサン、ドコ……?」
「わあ」
「オ゛クスリ゛ハ モウヤダァアアァァ」
初めて見たなあ、こんなおぞましい見た目の生き物。しかも喋るし。
……えっと、生き物ではないんだっけか?
千代子は呑気に頭を傾げた。
(これが、呪霊かあ……いつぞやのキメラアントより歪な形してるなあ)
奇しくも、これが千代子にとって呪霊との初邂逅だった。
場違いにも「キメラアントよか怖くないねえ」とか思っていたのでまったく緊張感の欠片もなかったけれど。
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